教育を語る言葉について【その時代の基幹産業を反映】
AERA 2022年4月11日号に記載されている内田樹さんの「教育を語る言葉の中にはその時代の基幹産業が反映されている」という記事が面白かったので、備忘と後学のためメモ書きを残しておきます。
教育を語るときに使われる言葉が、「農業→工業→金融」と変遷してきているという指摘です。
まさにご指摘の通り、という感じです。
私自身、製造業に従事していますが(勤続20年・・・)、
現在の基幹産業は、製造業ではなく、金融業だと痛感します。
工業や金融に使われる言葉が「子供の教育」に使われると息苦しいです。
「製造業の社員の教育」に使われるだけで、散々、息苦しい思いをしてきましたので。。
「子供の教育」に適した言葉を選ぶという発想はないのでしょうね。
「子供の教育」ではなく、「教育産業」のビジネス的成功に適した言葉が選ばれているのでしょう。
「農業→工業→金融」と変遷してきていますが、
さらに変遷が進んで、
「農業→工業→金融→農業」に戻ることを期待してしまいます。
教育を語る時の語彙(ごい)にはその時代における基幹産業の用語が混入するという仮説
ある時期から教育を語る言葉づかいに工学的比喩が増えた。
「PDCAサイクルを回す」とか「学士号の質保証」とかいう工学的語彙が書類に頻出するようになった。
私が子どもの頃はそんな言葉づかいで教育を語る人は一人もいなかった。当時、学校教育は農作物を育てることに類比されて理解されていたからである。「学級通信」というものを教師が作成していたが、そのタイトルは多くが植物由来のものだった。「めばえ」とか「わかば」とか「あすなろ」とか。おそらく教師たちは子どもたちもまた農作物と同じく、種を撒(ま)いて、水やりをして、肥料をやって、あとは天任せの生き物だというふうに思っていたのであろう。成長に関与するファクターは日照も降雨も病虫害も台風も人為によっては統御できない。秋になっても、どんなものが収穫されるか予測がつかない。だから、茫洋(ぼうよう)としてとらえどころのない子について大人たちはしばしば「大器晩成」という定型句を口にした。そういう言葉づかいが選好されたのは、子どもの生育過程を大人は完全に統御することはできないという涼しい無力感があったからであろう。
しかし、農業が基幹産業である時代が終わり、製造業がそれに代わると、教育を農業の比喩で語る習慣は失われた。学校は農園から工場に変わった。
最近驚かされたのは、子どもたちに「ポートフォリオ」を持たせるという教育法が採用されたと聞いたことである。子どもたちはなんと今度は「金融商品」のようなものに見立てられているのである。人々はそれと知らずに支配的な産業をモデルに教育を語る。いずれ人工知能や仮想通貨やバイオテクノロジーの用語で得々と教育を語る人が出てくるのだろう。